2014年12月4日木曜日

ナショナリズムの両義性

『インド近代における抵抗と背理』深い共感を誘う著書である。アジアのナショナリズムを論じたあまたの研究書の中で、それが抱える「背理」をこれほど鋭利に論じた作品は珍しい。アジアのナショナリズムに対する情緒的な思い入れは、ベトナム民族主義のあのおぞましい帰結によってもうすっかりわれわれから消え去ってしまった。

ナショナリズムとは何か、革命とは何かをきまじめに追い求めてきたジャーナリズムと学界が鳴りを静めて久しい。アジアのナショナリズムの本質は、帝国主義の「勢力東漸」に対する東洋の覚醒と抵抗にある。西欧の侵略と傲慢に抗して初めてみずからを主張し得たという点において、これが世界史的意味をもったことは否定すべくもない。しかしだからといってそのナショナリズムが、西欧的近代を超克した高次の文明創造の契機になるといった、一時代前に風摩した楽観的な思想に与することはとうていできない。

ナショナリズムは先験的にポジティブな役割を担うものではない。人種的、宗教的、文化的な異質国家から成るアジア諸国のナショナリズムは、異質的集団に対するしばしば苛烈な抑圧機構と化してきた。この「堕落」はいったい何なのか。本書の核心をなすのは、アジアのナショナリズムは現代において堕落を始めたわけではない、ナショナリズムはそれ自体が「健全」と「堕落」の両義性をほとんど宿命的に背負っている、という視角である。西欧的なるものに対するインド民衆のアモルフな反発と憎悪が植民地時代の大衆ナショナリズムとして結集していく一方、その同じ民族的心情がインド社会の内部に向かっては、不可触民差別とムスリム排撃へとつなかっていかざるを得なかった背理を鮮やかに論証している。

「今、我々はこの”東洋の抵抗”を、先験的に、能動的かつポジティブな契機として想定することが、もはや不可能な地点に立だされている。。道なき道を行く抵抗”は、ときに、背理や自己矛盾に行きつくことを、我々は見てしまったのだから」と本書は結ぶ。そしてそれ以上を語っていない。明晰の論理を展開しながら、末尾をこう結ばざるを得なかった著者の心情の中に、今日のアジアのナショナリズムの不透明なありようが暗示されているとみるべきであろうか。

2014年11月5日水曜日

e‐ビジネスの特徴

ユナイテッドーテクノロジーは、部品供給をウェブサイトで募集したところ、たちまち申し出が殺到し、入札価格を当初見積もりの二四〇〇万ドルから1000万ドルも切り下げることに成功した。企業向けの販売にも、ネットワークが活用されている。ミラクロン(Milacron)という金属加工機器の会社は、ウェブサイトを通じて五万点の商品を一〇万以上の企業に対して販売し始めた。オンラインを通じた取引を行なうことで、小規模な顧客に対しても、大企業と同等のサービスを提供することができる。

シスコーシステムズ(急成長しているインターネット関連機器の製造メーカーでは、全販売額の七五%はインターネットを通じて行なわれ、その約半分は、人間の手かぶれないままに処理されて製造工程に入るという。企業を相手にしたオークションサイトも多い。マーシャル(Marshall)社は、半導体の取引市場を提供するサイトを運営している。メーカーと顧客が価格交渉を行なったり、メーカーが余剰在庫やデッドストックを特価で放出したり、バイヤーが価格を指定する指し値取引を行なったりすることができる。このサイトを利用することで、メーカーは取引先を見出す機会を増やすことができ、価格変動の激しい半導体の余剰在庫を抱えるリスクを減らすことができる。

この他にも、ネットーマーケットを創出するサイトが続々と登場している。分野も、製紙、住宅ローン、運輸(トラックの空きスペース)などに広がっている。企業間のネットーオークショソ型電子商取引は、日本でも行なわれるようになった。コマツの子会社で中古建機を販売するコマツクイックは、九九年一月に初めて行なったネットーオークションで、インターネット経由の年間売上の三分の一にあたる七〇〇〇万円を四日間で売り上げたという。

このように、情報に直接関連する産業だけでなく、製造業も含めた経済活動のなかで、情報に関連する部分が大きく変わってゆくのである。また、消費者とのインターフェイスだけでなく、企業活動の全体をインターネット技術を用いて新しい仕組みに改造する動きが生じているのだ。これは、経済活動の全体が新しいスタイルに移行することを意味する。

米国では、企業間の電子商取引は、消費者を相手にするものの五倍の規模になっている。これは、「BいB」(Business to Business E-Commerce)と呼ばれる。九八年のBいBの市場規模は四三〇億ドルだが、二〇〇二年には、八四二〇億ドルに拡大し、二〇〇三年までに一・三兆ドルに達するという予測もある。ネットワークを活用する新しい経済活動は、つぎのような重要な特徴をもっている。第一は、技術進歩や事業の展開がきわめて急速なことだ。「インターネットの世界はドックイヤー」といわれる。犬は一年間に人間の七歳分の年をとる。インターネットの世界では、ほかの世界で七年間に起こることが一年間に起こってしまう、という意味だ。

2014年10月4日土曜日

住民参加型バスの先駆性

専門は社会学だが、その社会学を最初に提起したオーギュストーコントは、社会学者の役割を助産婦に似ていると表現した。社会は人間の思い通りにはならない。しかし、社会に起きつつあること、その将来像は、実証的な観察によって予見できる。予見ができれば、それが速やかに進行するよう、安産の手助けをすることだ。コントのこの議論は、近代社会を解読するという大きな枠組みの中で提示されたものだが、助産婦という表現は、この集落再生の問題にも適切だろう。まずは人々のうちに胚胎しているものを見定めなければならない。そこに何もなければ、それは死産に終わるかもしれない。しかし、何かがそこに用意されているなら、それを明るみに出し、実現するよう手助けすることだ。

集落再生プログラムを描くこと自体はそう難しいものではない。パソコン上で図を描くことなどやろうと思えばいくらでもできる。しかしそれが実行可能なものであるかどうかは疑わしい。各集落それぞれに個別の事惰がある。そこに暮らす人々の思いも様々だ。抽象的な論理を展開しただけでは、現場には何の役にも立だないだろう。それでも各地域で生じていることには、どうもある一定の方向性がある。限界集落問題は、北から南まで、全国どこにでも同じように現れている。とすれば、解決へのプログラムもある程度、同じように描ける可能性もある。共通する構造を慎重に見極めながら、その地に合った最も良い再生への道筋を、人々とともに引き出していくこと。鯵ヶ沢町の深谷地区ではそうしたことを目指して取り組み、かつそこでは一定の成果も見られた。ただしその成果は、既存の枠組みで考えている人にはがっかりするものかもしれないが。以下にその内容を、やや詳しく記述していきたい。

青森県西津軽郡鯵ヶ沢町。TJR五能線で行けば、弘前から一時間ほどで日本海が開け、鯵ヶ沢駅に到着する。次の駅が陸奥赤石駅。駅前に連なる赤石の小さな町を出て、赤石川を遡り、さらにその支流・沼ノ沢をたどって急坂をのぼっていくとやがて深谷地区に入る。公共交通では一日に一往復半のバスが鯵ヶ沢駅前からあるのみだ。二〇〇七(平成一九)年夏、日が暮れて涼しくなり、時折風の通る地区公民館の中で、弘前大学社会学研究室の学生だちとともに、深谷地区の地域調査を行っていた。深谷地区は計三集落からなる。麓に近い方から順に、深谷・細ヶ平・黒森の三集落である。

このうち真ん中にある細ヶ平集落の地区公民館に、深谷町会長の滝吉和俊さん、細ヶ平町会長の工藤幸夫さん、そして黒森町会長・山田衛さんを迎えて、聞き取り調査が始まった。テーマはこの集落の交通問題である。鯵ヶ沢町深谷地区はもともと、過疎地のバス交通で全国的に注目されてきた地域の一つだ。一九九〇年代、この地域では念願であったバス路線開通を、住民参加方式で実現した。その設計に大きく関わっていたのが、当時弘前大学社会学研究室にいた田中重好氏(現在、名古屋大学教授)である。弘前大学社会学研究室ゆかりの三集落というわけだが、鯵ヶ沢町役場に確かめたところ、このうち一集落が六五歳以上人口比率五〇%を超える、いわゆる限界集落に突入しつつあるという。

住民参加型バスの一五年後を調査しつつ現状を聞いてみようと現地を訪れた。鯵ケ沢~深谷・黒森間にバスが通ったのは、一九九三(平成五)年八月のことである。もともとこの地域では、一九七七(昭和五二)年の中学校統合でスクールバスが入るまで、冬期間の道路の除雪さえ十分に行われておらず、自動車交通そのものにも支障のある地域だった。その後も公共交通とは無縁であったこの地域では、鯵ヶ沢の町にある高校に行くにも下宿せねばならず、バス開通は地域の悲願だった。長い間の運動を経て、住民集会、バス会社・役場との折衝が重ねられ、次のような住民参加方式を採用することで、九三年のバス開通にこぎ着けることとなった。三集落に暮らす高校生を持つ家は必ず定期券を買う。時間は学校に間に合うよう調整する。何より、毎月一〇〇〇円分の回数券を、乗っても乗らなくても全戸で必ず買う。

2014年9月4日木曜日

一種の類似会社比準方式

現在の条件を並べてその中から比較するのではなく、将来のポテンシャル、将来にわたってキャツシューフローを引き出す力で比較する株式を評価する時のこの考え方は、われわれ自身が就職先を決める時にも「自然と」使っている考え方ではないでしょうか。

ところで、DCF法の欠陥は、先ほど説明しましたように、理論的には正しくとも、企業が将来生み出すキャツシューフローを予想することが難しいという現実面にあります。これから二千四年後くらいまでの収益はおおよそ予想できるでしょう。しかしながら一〇年後のキャツシューフローを予想するとなると、至難の業になってきます。

そこである年限以降については、その時点での企業価値を別の方法で予測するという折衷的な方法が取られることが、現実には多くあります。具体的にはたとえば五年後の企業価値を、同業他社の売上局や収益と比較して、一定の数値を掛けて算出するやり方です。仮に、同業他社の企業価値が売上局の五倍に評価されるのであれば、評価を行なおうとしている会社の五年後の価値も五年後に予想される売上局の一・五倍とするものです。

これはマルチプル方式と呼ばれ、一種の類似会社比準方式による株価算定法をDCF法の中に組み入れる方式です。マルチプル方式は、日本がバブルを謳歌していた八〇年代後半から九〇年代初頭にかけて、高い株価を正当化するために使われた方式です。一九九九年のインターネットバブルの頃には米国でも、「会社が持つソフトウェア技術者一人当たりいくらと置いて、ネット会社の価値を算定する」といったようなことが行なわれていました。

DCFの年数を短く設定しマルチプル主体で評価しますと、思わぬ間違いを犯してしまいます。特に、同業他社の評価が正しく行なわれていない場合、マルチプルのやり方では、同じように間違ってしまうという欠陥を抱えています。

2014年8月7日木曜日

患者には常に生きる望みを残してあげるべきである

年がら年中忙しいことを見せっけていては、患者は話しかけたくとも遠慮して躊躇してしまうかもしれないからである。「あの先生は忙しくても、ちょっとした間でも患者のいうことに耳を傾けようとして下さる」と患者に思われるだけでも、素晴らしいことだと思う。といっても、医師が多忙な仕事のちょっとした合間にでも告知をするべきだといっているのではない。

告知の際にはヽ誰が、いつ、どこで、何についてどこまで、どのように、告知するか、そして告知後の患者の精神的支援をどうするか、などの心遣いが必要であるが、いずれも大変慎重に検討すべき事柄である。これらについて、できることなら、病院内の患者症例検討会などで検討してから、実行に移すくらいの慎重さがあって欲しいものである。次に、告知に際して、とくに念頭に置く必要があると思われる重要な点について述べてみたい。

第一に、患者が詳しい自分の病状や不治の病についての告知を希望するかどうか、事前に本人の意思を知る努力が必要であろう。告知をする段階に入ってから患者本人に聞くことは、予後のよくない告知をするのではないかと患者に勘繰られるので、間接的な告知をすることに等しい。それゆえ、一案として、新患受付ですべての患者に機械的にアンケート用紙を渡して、たとえば「あなたは、病気の重い軽いにかかわらず、病状や病名を告知して欲しいですか」

「もし、条件付きの告知を希望される場合には、希望条件を記載して下さい」、「癌などで余命の短い場合には、告知して欲しいですか、聞かせないで欲しいですか」、「今のご意見を書いて下さい。もし、将来、意見や希望が変わってきた場合には、新しいアンケート用紙に記入し直して《差し替え》を申し出て、前回のご意見を自由に撤回し、変更して下さい」などの質問用紙に患者の意見と希望を記入して提出しておいてもらう方法を提案しておきたい。

もし、前述の「掛かりつけの医師」制度が実施されるようになれば、「掛かりつけの医師」が自分の担当家族の人々が元気なうちにこのような意見調査をしておき、意見が変わる度に、自由に《差し替え》をしてもらうようにしておくこともできる。第二に、医師であろうと家族であろうと、どのような人にも「他人に生きる望みを失わせるような表現で告げる資格も権利もない」と、私は固く信じてやまないものである。患者には常に生きる望みを残してあげるべきであり、そのために言い方や言うタイミングなどを工夫する努力を医師はするべきであろう。

2014年7月17日木曜日

航空自衛隊の次期支援戦闘機

実際、米国は技術的優越性の確保について、冷戦当時よりもさらに大きな比重を与えるようになってきた。冷戦当時は、技術の優越性とは、米国を中心とする西側ブロックの、ソ連を中心とする東側ブロックに対する意味が中心であったが、冷戦後は米国の世界に対する圧倒的な技術的優勢の確保と維持が、米国世界戦略の中で重要な地位を占めるようになっている。

その方針の一端は日本に対する技術競争での警戒心や、フランスに対する技術スパイ活動への反発(一九九三年のパリ航空ショーに対する米軍機出展拒否など)という形になって具体化した。現在米国は航空機、宇宙開発、そして情報の分野で世界に対して大きな優位を占めている。QDR報告書の中でも、米国は宇宙設置システム、指揮・統制・通信・コンピュー々へ諜報・監視・偵察などの分野で潜在的な敵対勢力よりも大幅に優位にあり、かつその能力を増大させているとしている。

すでに航空自衛隊の次期支援戦闘機FS‐X(現F‐2)開発計画において、米国が日本に対する積極的技術移転を渋るだけではなく、日本が独自に開発を行う方法すら妨げようとする外交を展開した。スーパー・コンピュータや通信衛星の開発、輸出入などでの米国の執拗とも言える干渉は、この米国の技術優勢確保戦略に基づいている。今後、米国のこれらの分野におけるきわめて積極的な優位確保のための経済外交戦略は、強化されることはあっても緩和されることはないであろう。広い意味での安全保障という点から、この米国の技術戦略は、今後重要な要素として忘れてはならないものである。

また民間市場においては、軍事、民需双方に広い応用が利く、いわゆるデュアル・ユース技術の開発が加速され、それがためにNBC(核、生物、化学)兵器とその運搬手段である弾道ミサイルや巡航ミサイル(これらをひとまとめに「大量破壊兵器=WMD」と呼ぶ場食が多い)の拡散を抑制することが次第に困難になってきているとの懸念を表してもいる。そして米国は、今後の兵器開発においては、こうしたWMDを相手が使用する可能性を十分に考慮した設計をする必要があると論じている。

QDRにおいて米国は、二一世紀を迎えようとする今の時代はダイナミックで不確実な安全保障環境であるとし、それは米国にとって難しいチャレンジの環境であると同時に、新しい平和、繁栄、国家間の協力態勢強化の新しい可能性を提供するものでもあるとしている。そして、NATO、日米、米韓同盟関係は米国の安全保障にとってきわめて重要なものであり、安定した、繁栄の世界に対する基礎を与えていると断じた。

2014年7月3日木曜日

DNA型鑑定

栃木県足利市で90年、当時4歳の女児が殺害された事件をめぐり、無期懲役判決が確定した菅家利和受刑者(62)の再審請求の即時抗告審で、東京高裁が依頼した鑑定の結果、女児の着衣に付いていた体液と、菅家受刑者から採取した血液などのDNA型が一致しない可能性が高いことが関係者の話でわかった。

この事件では、犯罪捜査に活用されるようになって間もないDNA型鑑定が逮捕の決め手となり、一審・宇都宮地裁から最高裁まで、その鑑定の証拠能力が認められていた。「不一致」が正式な結論となれば、確定判決の有力な根拠を覆す形となり、再審開始の可能性が高まりそうだ。

事件は90年5月、足利市内のパチンコ店駐車場で1人で遊んでいた女児が行方不明になり、翌日午前、近くの渡良瀬川河川敷で遺体で発見された。菅家受刑者は一審の公判途中で否認したが、確定判決によると、DNA型鑑定で、女児の着衣に付着していた体液と、菅家受刑者が出したごみ袋の中から採取した体液が一致したとされる。

これに対し、弁護団は当時のDNA型鑑定は信用できないなどとして02年に再審を請求。昨年2月、宇都宮地裁が請求棄却を決定し、弁護団は即時抗告した。東京高裁は同12月、再鑑定実施を決定。検察、弁護側がそれぞれ推薦した鑑定人が調べていた。

双方の鑑定の結果、いずれもDNA型が一致するとの結果を得られなかったとみられる。鑑定人は今月末をめどに、最終的な結果を東京高裁に提出する見通しだ。

警察によるDNA型鑑定は警察庁科学警察研究所(科警研)が89年に始め、3年後に全国の警察で導入。当初は「16~94人に1人」を識別できる程度の精度しかなく、捜査でも補助的な役割だった。現在は「4兆7千億人に1人」の確率で識別できる。

2014年6月18日水曜日

中国の市場経済化

軍部・政治エリートを背後にもつ権威主義的な経済官僚テクノクラート主導の開発戦略を、民主主義や人権を軽んじた「開発独裁」といったマイナスーイメージの濃厚な用語法でくるみ上げるのは正当ではない。アジア諸国がおかれた歴史的条件下で、なお急速な工業化を図らねばならなかった以上、他にいかなる選択肢がありえたというのであろうか。

リー・クアンユーは、日本における最近のスピーチにおいて、「民主主義と人権は、たしかに価値ある理想であるが、真の目標は『よい政府』にあることを明白にしておかなければならない。……すなわち、清廉で公正な政府、能率的な政府、人民の面倒をよくみる政府であるかどうか。国民が生産的な生活を送れるように、よく教育され、訓練された秩序と安定性のある社会であるのかどうか。それが基準たるべきなのです」(『諸君』一九九三年九月号)と語った。

東アジアの文脈において、今日の経済発展のありようを眺めるならば、この発言は実にまっとうな常識を素直にいいあらわしたものだ、というべきであろう。東アジアの経済発展を論じるに際して、おそらく最大のテーマは、あの巨大な社会主義中国が新たに「市場経済化」への道を選択し、それが奏功して超高成長の過程に入っているという事実であろう。

中国の市場経済化は、農業の改革にはじまり、その成功が郷鎮企業を群生させた。郷鎮企業は、農村経済を大きく活性化させるとともに、中国工業化における一大勢力となった。これに個人・私営企業、さらには外資系企業が加わって、国営部門は、しだいに中国経済に占めるそのプレゼンスを縮小しつつある。

長らく中国の社会主義計画経済の中枢に位置してきた国営企業の力が弱まり、計画経済の枠外に生まれた多様な経済主体が中国の市場経済化をうながし、中国経済の成長を牽引する主勢力となってきたのである(中国の国営企業は一九九三年三月の憲法改正により国有企業と呼ばれるようになった。「所有と経営の分離」への意向がここに反映されている。

2014年6月4日水曜日

減量療法の効果

肥満度が増加するほど高血圧症の頻度は高くなり、BMI(体格指数が三〇を超えると高血圧症の頻度は五倍、心筋梗塞による死亡は七倍以上になると報告されています。正常血圧例でも、BMIが高いほど血圧も高めであることが示されています。日本では欧米のように極端な肥満者は稀ですが、軽度肥満者はたくさんいます。BMIが二五程度であっても高血圧症の頻度は増加し、フラミンガム研究では二〇%肥満者での将来の高血圧症発症は八倍に増加することが示されています。肥満による血圧上昇は体重が一キロ増えるごとに一~一・五ミリメーター水銀程度と言われており、体重を減らすことは、塩分を制限するよりも一般に降圧効果が大きいとされています。

体重をどの程度減らすと血圧がどれくらい下がるかは。減量のスピードによっても成績か異なります。一日四〇〇キロカロリー以下の超低エネルギー摂取では、二週間以内に九割の例で血圧が正常になります。一日八〇〇キロカロリーの食事により六割の例が三週間以内に正常血圧化するという成績もあります。また一日一二〇〇キロカロリーでは減食開始早期の降圧はなく、減塩を併用しないと血圧は下がらないと報告されています。

一日一〇〇〇キロカロリー以下のエネルギー摂取では、減食開始当初に飢餓か原因となって起こる利尿(尿量の増加)があり、それに伴って多くの例で降圧が認められます。減食当初に飢餓利尿による体重減少と降圧があれば、患者にとっては励みになりますが、立ちくらみ、不整脈などの副作用の報告もあります。通常は1000キロカロリー以上の摂取が安全ですが、この場合には減量か徐々であるため脱落者が増えるジレンマがあります。

減量が高血圧症治療となるためには、数ヶ月間減量しても意味がありません。長期にわたって減量療法を続ければ有効なことは間違いないと推測されますが、それを確認した成績は非常に稀です。超低エネルギー摂取により標準体重になった例の追跡では、減量後半年以上たっていても体重が増加したケースでは血圧も上昇すると報告されています。

前述のTOHP試験では。三五~五四歳で一五~六五%肥満があり、最低血圧八〇~八九の約五五〇例を減量指導群と非指導群に分け一八ヶ月間観察しました。指導群では男性四・七キロ、女性一・六キロの減量があり、最高血圧、最低血圧の降圧が認められました。この研究による降圧は軽度ですが、最低血圧か八〇~八九の症例は非常に多く、平均で数ミリメーター水銀降圧することは、相当数の高血圧症発症を抑制できる可能性があります。

2014年5月22日木曜日

総量規制の評価

特に八〇年代後半は政治主導を鮮明にした中曾根内閣の時代であった。国鉄民営化など、政治的英断が発揮されたのはこの時代である。バブルつぶしの時期は海部内閣の時代であるが、当時、与党は小沢幹事長、内閣は橋本蔵相の強いリーダーシップでむしろ従来以上に政治主導の色濃かった時期と言えるように思う。

わが国の政策運営は今後さらに政治主導の政策決定という方向が強まるであろうが、こうした問題について、政治主導が適切な方向に働くかどうかは必ずしも明確ではない。アメリカのグリーンスパン連銀総裁のような中立的で経験を積んだテクノクラートの役割に依存することの多い領域という考え方もあるだろう。

バブルがピークに達し、わが国経済が世界でもてはやされていた頃、マイホームの夢を奪われた国民は、上地を持つ者と持たざる者の不公平を批判し、その声は政治に敏感に反映した。国会や与党の会合では、地価抑制のための一層強力な税制上、金融上の措置を求める声が相次いでいた。各方面からずいぷんと尻を叩かれて、九〇年三月の不動産融資総量規制の導入、九二年一月からの地価税の導入が実現する。今でこそこれらの措置は余り評判が良くないが、当時の評価はそう悪いものではなかった。

世間の印象とは違うかもしれないが、近年における金融行政は、個別部門への資金配分にまで行政が介入することについては消極的である。特に当時は金融界の意気も高く、金融自由化・国際化のムードが高まっていた頃であった。当時はまだ大蔵省の権威は残っていたが、銀行の行動を強権的に規制する措置が素直に受け入れられる雰囲気ではなかった。そのため、先にもふれたように、土地融資についてはすでに八六年から、強権的行政介入を避けつつ、投機的な土地取引につながるような融資の自粛を求める通達を数次にわたり出している。しかしその効き目はあまりなかった。

2014年5月2日金曜日

市民の森

都市づくりのなかで緑をどう確保するかは、重大な問題である。人間は鉄とゴンクリートだけでは生きてゆけない。豊かな緑と、広大なオープンスペースは、都市で人間らしい生活をさせる要件である。欧米では、ニューヨークのセントラルパーク、ロンドンのバイトパーク、パリのブローニュの森などのように、広大な公園中森を都市の中に確保してきた。ドイツの都市は周辺に広大なシュクットヴァルト(都市森)をもち、休日には一日中散歩している市民、がいる。一人あたりの公園面積でも、ストックホルムの、八〇平方メートルは別としても、三〇平方メートルほどはざらにある。ところがわが国の都市では、一人あたり三、四平方メートルにすぎず、ちょうど一桁違っている。東京や横浜では、人口の増加が急激すぎたため、一人あたりの公園面積は、二平方メートルていどにすぎない。

これは、わが国の都市では、地価が異常に高いこと、国の補助金による以外に事業ができない自治体財源の貧しさ、自主性のなさ、そして国の公団緑地への補助金は、道路などに比べてあまりにも小さいこと、などがその理由としてあげられる。横浜市では、定型的な公園建設だけでなく、広い意味の緑やオープスペースの確保につとめてきた。大通公園の設置、緑の軸線、線引きによる調整区域確保、風致地区の拡大指定、宅地開発要綱による公園の義務化、都市長業による農業専川地区の設定、市街地環境設計制度、山手景観風致保全要綱など、さまざまである。さらに、「緑の環境をつくり育てる条例」を制定し、工場緑化や、公共施設の緑化などにつとめ、それなりの効果をあげてきた。

緑の確保問題は、なんといっても土地問題である。もちろん国の抜本的土地政策が必要だが、それまで待っていられない。しかし緑を買収する財政的余裕もない。そこで横浜市は、発想を転換し、市民の協力をえながら、市民との協同によって緑地や森林の確保をはかったのである。それは地主が土地を保有したままで、あるていどまとまった山林を複数の地主と市が協定を結び、市民に解放する。散歩道やベンチなどをつけて、市民が静かな山林の中を散策できる。地主には、固定資産税等、相当額を奨励金として交付している。管理運営も地元主体で、地主や地元市民によって運営委員会を組織し、市からは管理委託料を交付している。

この制度は、市行政側かひとつの筋道をつくったのであるが、市民の協力と、市民団体の手による自主的管理によって成り立っているものであり。市民主体で造り育てた森ということができるだろう。昭和五五年現在で、二五二ヘクタールあり、これは同じ時期の都市公園五三一ヘクタールの七割近い面積を有し、とぼしい横浜市の都市公園の不足を賄っている。このような発想はこれまでのような建設省の指令のもとで、定められた小さな補助金をうけながら公園を設置し、管理していた市の公園部の発想のなかにはなかった。それは法令と予算のなかに閉じこめられていたからである。ところが横浜市は、昭和四六年に。全国でも初めての緑政局を発足させ、緑政局の手で新しい発想が次々に展開したのである。

2014年4月17日木曜日

あえぐ中産階級

安定を求めるならば、大会社に入れる者は入り、入れない者は、その社会の中で甘んずることなく、更に向上したい、更に高い地位に上ろうとするし、商売センスのある者は事業を起こす。腕に自信のあるものは製造業を起こす。与えられた社会の中の自由でインターネットを楽しみ、ゲームを楽しみ、政府のフィルターのかかったテレビドラマや娯楽番組を楽しむ。少し社会的なセンスを持ち合わせた者は、お仕着せであっても世界のニュースに関心を持つ。外国の放送を直接耳に出来る人は、語学が出来、しかも特定の許可された者に限られる。この与えれた社会で中国の青年たちは人間としての営みを続けていくしか方法はないのだ。ただし、これにも条件がある。即ち最低限の生活? が出来ることである。生活が出来ず、自由主義圏のように不満を合法的に発言する場がないので、その不満は青年たちの体内で少しずつ欲求不満として沈殿していく。たとえ政治的には大きな変化がなくても、経済的には社会はどんどん変る。

現在の中で環境の変化も激しい。貧富の差が拡大しつつある。「あいつにあって、どうして自分にはないのだ?」時代に取り残された青年、変化についてゆけない青年は、犯罪に走ることになる。何処の社会にも存在する青年たちだ。「上に政策あれば、下に対策あり」とは言うものの対策が出来て実行できる人は全体の少数派である。(もっとも少数といっても絶対値は多いが)勢い、この対策とは違法行為をして金を手にすることと同義語となる。この人たちは、もって行き場のない不満を心に抱きながら、私達外国人の目の届かないところで公安に捕まり消えていく。外国人が直接、接触して話が出来る人々はある程度生活力のある人たちに限られてくる。

何とも悲しく切ない青年たちである。この現実を目にすると、気軽に中国の長所をほめたり、欠点をあげっらうことが出来ず、その事実が重い滓となってテレビや書籍で見る日本の現在の青年たちの犯罪と重なって私の心の中に沈んでゆく。どうしても中国の「現在の現実」と「あって欲しい現実」とを比べる余り、暗い話になってしまうが、希望に燃える話がないわけではない。しかし、読者にはもう少し我慢して頂きたい。二〇〇八年のつい半年前までは、中国も高度成長を続け、GDP伸び率も二桁を維持してきた。しかし、後半の半年はサブプライムローンを引き金にアメリカの金融危機が勃発した影響を受け、GDP伸び率が急激に落ちてきて二〇〇八年は最終一ケタ台になると予想されている。

中国では、アメリカの金融危機の世界的影響にも係わらず、世界でも影響が一番少ない国と政府は発表し、結構中国の人はそれを信じていた。中国に関心を持つ政治経済、または中国とかかわりを持つ人は中国のGDP伸び率やその量、一人当たりのGDPに関心を持つ。しかしその数字では本当の庶民の憂いがわからない。もう一つ大事なことは国民の消費に関しての数字にも関心を持たなければならない。日本ではGDPの中の国民消費の割合が五五~六〇%を占め、アメリカでは七〇%を占めていることに対し中国では三五%~四〇%と低い状況にある。これは何を意味するかと言うと二〇〇三年からの二〇〇七年まで五年連続二桁のGDP伸び率であったが、個人を取り出せば二〇〇〇年の個人消費が四八%といわれていることから考えると本当の意味では個人は余り豊かになっていない。

これを人口で割れば一人当たりのGDPに占める割合は日本に比べると、国民全体の占める比率よりも更に小さい数字になる。絶対人口の多さで、三五%~四〇%になっていることが分る。一部の人間の豊かさが全体を押し上げて、一見豊かになっているように見えるだけである。一人当たりのGDPというのは全体を平均化していることであり、中国のように格差が大きい国では、本当の庶民の豊かさの実態を表さない。個人消費の占める割合というのも個人の豊かさを必ずしも表さないが、両方を見ることによりいくらかは判断の基準がもう少し明確になる。二〇〇七年のGDP伸び率が、一一・四五%であり、その中で個人消費、不動産、輸出がそれぞれ四・四%、四・ニ%、二・七%と発表され、初めて個人消費が不動産を上回ったということであるが、裏を返せば、中国の発展は不動産投資、輸出(輸出の半分以上は外資系企業)に支えられてきたということである。