2012年8月23日木曜日

工作員逮捕と中朝関係悪化

一九九九年四月、北京に駐在する北朝鮮の大物工作員「リー・チョルス」が家族と共に亡命した。北朝鮮の指導部には、なぜ彼が亡命を決断したのか理解できなかった。金正日総書記が、最も信頼していた工作員の一人であった。多くの秘密を知る人物である。

この大物工作員の行方は、いまも判明していない。北朝鮮当局は一時、逃亡直前に彼が米国大使館と携帯電話で連絡を取っていたことから、米国に亡命したとも考えた。

ところが北朝鮮は、最近になって中国が「リー・チョルス」を保護していると確信するようになった。一九九九年秋頃から中国に駐在する北朝鮮の幹部級工作員およそ二〇人が、中国の公安当局に次々と逮捕されたのだ。長い中朝の関係では、お互いに工作員を追放することはあっても、逮捕することはなかった。

逃亡した「リー・チョルス」を中国が保護し、その供述から北朝鮮の工作員を逮捕しているのは間違いなかった。ところが、中国は北朝鮮の「捜索と身柄引き渡し」要請に応じないどころか、「中国としても発見できないでいる」と答えるばかりであった。

中国政府当局者によると、二〇〇〇年三月五日に金正日総書記が平壌の中国大使館を突然訪問した。これは、金正日総書記がこうした中国側の態度に怒ったための行動であったという。金正日総書記は中国大使に「このままでは、中朝の関係は普通の国の関係になってしまう。古い友誼と友好関係を壊すつもりなら、北朝鮮にも考えがある」と伝えたという。この中国大使館訪問に、金正日総書記は軍の首脳全員を伴った。これは、軍事的な手段を使っても逮捕された工作員を救出するという意思表示になる。この結果、中国側は逮捕した工作員全員を釈放したという。

この工作員逮捕が、金正日総書記に大きな衝撃を与えたのは間違いない。北朝鮮が強く求めている逃亡工作員を引き渡さないばかりか、新たに工作員を逮捕したのである。中国は信頼できないばかりか、やはり北朝鮮を見捨てるのではないかとの思いが募るのは当然であった。

金正日総書記はおよそ七時間中国大使館に滞在し、中国首脳からの回答を待った。中国側は「中朝の友好に変わりはない」とのメッセージを伝え、およそ二〇人の幹部級工作員を釈放した。だが、中国側は「中朝同盟」の言葉は避けたという。

この中朝関係の悪化が、金正日総書記に南北首脳会談を決意させたと思われる。これまでの南北対話のセオリーから判断すると、こうした仮説が導きだせる。北朝鮮は、自らが国際的に厳しい立場に立だされている事実を韓国には覚られないようにしながら、首脳会談を実現したのである。

中朝関係の悪化を物語るエピソードがある。南北首脳会談のための韓国と北朝鮮の秘密交渉は、北京と上海で行われた。ところが、北朝鮮は公式発表まで中国に首脳会談の合意を伝えなかったのである。この事実は、中国外務省の高官が確認した。日本の外務省も、中国側からこうした事実を知らされたという。中国の関係者によると、中国が首脳会談を公式に知らされたのは韓国からの通告によってであった。

北朝鮮を南北対話に向かわせる共通要素

 ①一九七二年の初の南北対話では「南北共同宣言」で合意した。
 ②一九八五年の南北対話では、離散家族の再会が実現した。
 ③一九九〇年には南北首相会談が行われ、「南北基本合意書」に署名した。

この三回の南北対話に共通するセオリーは、中ソとの関係が悪化したり、国際的孤立に追い込まれると、その打開策として対話に応じていることである。一九七二年の場合には、アメリカのニクソン大統領が中国を訪問した。これは、向盟国中国の裏切りであった。それまでは、中国は北朝鮮と共に「米帝国主義」を「敵」として激しく非難していた。ソ連はすでにアメリカとの「平和共存」を推進しており、北朝鮮としては直ちにソ連に傾斜するわけにもいかなかった。この結果、南北対話に応じたのである。

一九八五年の南北対話は、孤立からの脱出を狙ったものであった。当時北朝鮮は、一九八三年にビルマ訪問中の全斗煥大統領の暗殺を狙ったラングーン爆弾テロ事件を起こし、国際社会から制裁を受けていた。特に中国の怒りは激しく、中朝関係は最悪の状態に陥ったのである。こうした事態を打開するために、南北対話に応じたのだった。韓国が対話に応じれば、国際社会の態度も変化せざるをえないからだ。

一九九〇年の南北首相会談の際は、東欧社会主義国が崩壊しソ連が韓国との国交正常化に踏み切り、北朝鮮にも崩壊の波が押し寄せるのではないかと憂慮された。また、中国は韓国との関係改善を進め、韓国企業が中国に進出するようになっていた。この結果、中朝関係もしだいに悪化していた。中国が韓国との国交正常化に踏み切るのは、時間の問題と思われた。

こうしてみると、北朝鮮を南北対話に向かわせる共通要素は、中国との関係悪化である。それでは、二〇〇〇年六月の南北首脳会談の前に中朝関係は悪化していたのか。実は、当時の中朝関係は最悪の状態にあった。金正日総書記が中国の指導者に「中朝関係を普通の国の関係にするつもりか」と問い合わせのメッセージを送るほどに、冷えていた。

何があったのか。大物工作員の亡命事件と、幹部級の工作員が多数逮捕される事件が起きていたのだった。

なぜ南北対話が実現したか

金大中大統領と金正日総書記との首脳会談が実現したといっても、南北統一がすぐにも実現するわけではない。金大中大統領も言及しているように、統一にはなお二〇年から三〇年の時間が必要である。

金大中大統領は一九九八年の就任以来、南北首脳会談を何度となく呼びかけてきた。北朝鮮は、この呼びかけに応じないばかりか、金大中大統領の「太陽政策」を激しく非難してきた。労働党の機関紙・労働新聞は、「傀儡執権者がわめく『対北政策』とは、すなわち『対北包容政策』であり、これがわが方(北朝鮮)を改革・開放へ誘導してどうにかしようという校猪な手法だということは周知の事実だ」(一九九九年一二月二八日)と、激しく非難した。北朝鮮は、二〇〇〇年の国連総会で韓国の外相が南北首脳会談の実現を「太陽政策の成果」と演説したことを激しく非難した。

これは、北朝鮮が太陽政策を北朝鮮を崩壊させる政策であると理解しており、太陽政策に応じて南北首脳会談が実現したわけではない、と主張していることになる。あくまでも、金正日総書記の指導と決断で南北首脳会談が実現したという立場である。そうしてみると、南北朝鮮の指導者が首脳会談を実現した理由と動機は、まったく異なることになる。

太陽政策とは何であったのか。金大中大統領は就任演説で次の方針を明らかにした。

●北朝鮮のいかなる武力挑発も容赦はしない。
●北朝鮮を崩壊させたり吸収統一するようなことはしない。
●南北間の和解と協力を可能な分野から積極的に推進していく。
この基本方針に加え、以下の新たな政策も次々に打ち出した。
①民間の交流と協力は原則として自由にする。許可制から届け出制に。
②政府間交渉は相互主義に。韓国は一方的に譲歩しない。
③南北基本合意書(一九九一年)の復活。
④南北経済共同体提案(二〇〇〇年一月)。
⑤ベルリン宣言(二〇〇〇年三月)。

この八つの政策をまとめて「太陽政策」と呼ばれた。ただ、南北首脳会談の合意では「相互主義」と「南北基本合意書復活」の政策は排除された。結局は、韓国が多くを譲歩し北朝鮮はほとんど譲歩していないというのが、偽らざる現実である。

首脳会談の実現が、太陽政策の成果でないとするなら、どうして実現にこぎつけたのか。その謎を解くカギはこれまで述べてきた「南北対話のセオリー」である。南北対話は、過去に三回実現している。