2013年3月30日土曜日

乱写は乱射

当時は部長のところにくるフリーカメラマンも、みなスーツ姿でした。もちろん仕事の内容や場所によって服装も変わりますが、部長が言いたかったのは、要するに「相手に名刺を出せる格好で行け」ということでした。この訓えは四十年たったいまでも守っているつもりです。特に大事な仕事や緊張を要する撮影のときは、できるだけきちんとした服装をして行きました。仕事先で、少しでも「こんな格好で失礼ではなかったろうか」などと考え始めたら集中できません。いくぶん堅めの身なりのほうが、多少、雰囲気に合わなくても気が楽です。この部長は入社したばかりの若い部員たちをたびたび自宅に呼んでご馳走し、帰りがけには、みんなに使わなくなったネクタイを払い下げてくれたものでした。

昭和四十一年に、出版社のカメラマンで構成される日本雑誌写真記者会が設立されましたが、このとき、いくつかの規約のほかに「取材相手に不快感を与えない服装」という項目も盛り込まれました。誇りを持って仕事をするためです。昭和五十三年、ヤクルトースワローズがセントラルーリーグで初優勝したとき、広岡達朗監督は押しかけるマスコミにもみくちゃにされました。筆者の先輩もその一人でしたが、移動する新幹線の中で名刺を出して挨拶をしたところ、「カメラマンから名刺を出されたのは初めてだ」といって、わざわざ立ち上がって受けとってくれたど、感激の面持ちで話してくれました。先輩が「名刺を出せる格好」であったことは言うまでもありません。

プロゴルファーのジャツクーニクラウスが新しい専属キャディを募集したとき、大勢の応募者の中からたった一人を選んだ理由は、「スーツを着てきたから」たったそうです。こんなことを言うのも、カメラを持っている人は、得てして写す相手を観察することばかりに熱心で、自分自身が見えなくなっていることがあるからです。「外見より中身」「撮れれば勝ち」というのは脆弁にすぎません。レンズを向けているときは、相手から自分も見られているのです。それなりの服装をするのは、相手に対する敬意であると同時に、自分の心に洗濯のノリをきかせることでもあるのです。

カメラを武器に有名人を狙い、問答無用の写真を撮って生計を立てている輩がいます。イギリスのダイアナ元皇太子妃を死に追いやった元凶ともいわれた、パパラッチと呼ばれる人種です。嫌われ者のやぶ蚊のような連中ですが、彼等が吸う血は針を持たない一般大衆の大好物でもあるので、マスコミという噴霧器からまき散らされると、あツという間に世間に広まります。近頃の日本では素人たちの間にも、そんなやぶ蚊の卵が孵化し始めています。有名人とみれば無神経にカメラを向ける連中です。おかげで映画やテレビで活躍している有名人や人気スポーツ選手たちは、いまや四六時中、レンズを向けられ、気の休まるヒマもありません。

先日、名古屋から新幹線のグリーン車に乗ったところ、前の席にある女優さんが座っていました。しばらくすると、うしろから若い男がやってきて、いきなり女優さんの顔にコンパクトカメラを近づけると、ピカッとやって黙って行き過ぎました。眠ろうと目を閉じた直後に光ったストロボに、女優さんはアッと小さな声を出しただけでしたが、心ないショットがどれくらい彼女を傷つけたか、「やったあ」と思っている青年はまったく気づいていないでしょう。