2015年1月8日木曜日

すべての親が学ぶべき

技術的には、昔は母親の母親が、つまりおばあちゃんが直接教えてくれたものである。しかし今は一緒に住んでいないばかりか、もし一緒に住んでいても、技術進歩のためにやり方が変わってしまっているので、おばあちゃんの知識や技能が役に立だない。教えることがなくなりつつある。しかしもっと大切なのは技術よりも親子の心理的関係についての知識である。子どもの各成長期ごとに、親と子の心理がどのように関係し、いかに変化してゆくか、どんなことに注意したらいいのか、等について、信頼できる教育の機会がないのである。

なるほど大学には教育心理学や児童心理学の講座はあるが、そこで学ぶ人は将来学校の先生や保母さんになる、ごく限られた人たちだけである。実際に父親や母親になる一般の人々は、そういう「専門的」教育を受けないままに、いきなり子どもを育てることになる。たしかに子どもをいかに育てたらいいかという本は出版されている。しかしそういう本を読む人もまた限られている。育児の方法については、依然として「専門的」知識にとどまっている。しかし親子関係の心理や育児の方法は「専門的」知識であってはいけないのである。だれでも必ず学ぶ機会を持てるものでなければならない。ちょうど車を運転する者が必ず自動車教習所に入って、一定の教習を受け、試験にパスしなければならないように、子どもができたら、生まれる前に一定の講習を受けて、子どもを育てる資格を取らなければ子どもが産めない、というくらいにする必要がある。

ここまで言うと、人は笑うかもしれないし、私も本気でそこまでやるべきだとは言わないが、しかしこの喩えには何がしかの真理が含まれていると思う。我々はどこかで子どもの育て方についてきちんと学ぶ機会を持つ必要があるという意味では、それを自動車教習所に喩えることはそうばかばかしいことではないはずである。車の運転は人の命にかかおると言うのなら、育児は子どもと社会の将来を決定するのである。まして現代は地球がひとつの運命共同体となり、一部の動きが人類全体に直接影響を与える時代であるから、于どもの育て方は人類の命にかかおる大仕事であるという自覚をすべての親が持たなければならない。

育児の方法をいつどこで教えるかは、難しい問題である。たとえば全員に教えるという意味では義務教育の間に教えるのがよさそうであるが、しかしあまり早く教えるのは、じっさいの親子関係をかえって破壊する作用をしかねないし、教わる子どものほうも実感が伴わないので、真剣に学ぼうとしない恐れがある。時期としては大学生あたりが適当であろうが、それでは国民全体にというわけにはいかない。もっとも、それ以前に、そういうことを国民全体に一斉に教えること自体について、さっそく反対論が出そうである。そういうことは自発的に学ぼうという意志のある人にだけ教えればよい、と。また教える内容についても、必ずしも確定しているわけでもなく、人によってあるべき育児の方法が異なっているのであるから、なおさら画一的に教えるということには疑問が提出されることであろう。

このように具体的にどのような内容を、どのような方法で教えるかは、たいへん難しい問題であるが、しかし子どもを育てる親が、その方法についてなんらかの形で学ぶ必要があるという点には、大方の人が賛成するのではなかろうか。ひところ親業という言葉がはやり、親業のセミナーが開かれたりしたが、それもこのような必要が感じられた結果であろう。親になるためには、ただ物理的に子どもを産み育てればよいというものではなく、子どもの育て方についてそれなりの教育を受け、準備をする必要があるということが、もっと認識されなければならない。そしてその教育の方法について、しかるべき機関において早急に検討され、実験的にでも実施に向けて動き出すべきである。