2012年12月25日火曜日

不妊治療の現実

お産の専門家が産科医で、男性が大部分という現実は、次のような出産の現状をも作り出している。まず、出産に関連してよく研究されている分野は、女性の不妊治療を目的とした生殖技術だ不妊治療ではないが、一九八六年に飯塚理八氏たちが「男女の産み分け法」を開発した時、私は医師たちの生殖技術開発競争に危惧を持つ友人だちと、「自然の力に任せなければならない分野」に人間が手を入れることの不安と、」定の倫理的歯しにめの必要性を、興奮しながら議論し合ったのをおぼえている。しかしその後、歯削めどころか、女性の身体を研究材料とした不妊治療開発競争はどんどん拡人している。

二十数年前、同氏たちによって盛んに行なわれ、テレビドラマにも登場した、AIDなど人工授精は、今ではも立不妊治療のイロハだ。その後、排卵誘発剤の研究開発による多胎妊娠、体外受精、さらにその受精卵を冷凍保存し、適宣解凍してかえし、妊娠出産に成功など、様々なことが進行している。「こんなことまで人間が闘発していいのだろうか」と危惧したとおり、どんどん女性の身体への自然破壊が進んでいる。

これを福音と考えるか、破壊と考えるかは、何を第一義と考えるかによって決まるだろう。しかし私はどのような状態の女性であれ、その女性の人生は、その女性にとってかけがえのないものであり、その入らしく人生を充実させること、それが何にも勝る大切なことだと考える。若い未婚者の「不妊」イメージ女性は、明治以後の富国強兵という国策のため、必要以上に強められた「家」の意識を、戦後もそのままひきずっている人の多い日本では、とくに苫しい立場を強いられている。ある時、若い人たちがどんな未来を描いているか聞いてみた。

男子学生では二三名中、「結婚している」と明記した者一三名、さらにそのうち「子どもがいる」と考えた者一一名。女子学生は一〇〇名だったが、同じく「結婚している」者は九二名、「子どもがいる」者はそのうち八五名にのぼっている。結果をみて驚いた。若くて「家」意識などにこだわっていないようにみえる未婚の男女学生たちが、こんなにも強く、正統な大人は既婚者でなければならないとイメージしているとは。さらに大多数が、結婚と父や母になることとを同一視し、子どものいる家庭生活を「平凡な生活」とか「子どもたちのために外国で」(以上男子学生)などと想像し、あるいは「平凡だが明るい家庭」とか「忙しいが充実した毎日」とイメージしている。

そしてこのように、彼らは子どものいる家庭生活を「明るい、充実した、当たり前」のものとみなし、子どもを中心として家庭が運営されることをほとんど疑っていないのである。若者さえこうなのだから、「家」主体の家族観を強固に身につけた義父母に囲まれた現代の不妊女性たちが、どのくらい強い苦しみを受けているか想像に難くないものと思う。

私は一〇年ほど前テレビで、不妊女性たちが苦痛のともなう不妊治療を受けながら、排卵誘発剤を投与され、その後ただひたすら排卵日の人工授精にそなえて入院している姿をみて、涙を禁じえなかった。ひどい苦痛と多額の出費、それに計り知れないほどの時間を、ただ子作りのためだけに費やす女性たち。こんな「卵をうむことだけを強要されるメンドリのような人生」になぜ女性たちが追い立てられたり、あるいは自分を追い込んでいくのだろうか。