2014年4月17日木曜日

あえぐ中産階級

安定を求めるならば、大会社に入れる者は入り、入れない者は、その社会の中で甘んずることなく、更に向上したい、更に高い地位に上ろうとするし、商売センスのある者は事業を起こす。腕に自信のあるものは製造業を起こす。与えられた社会の中の自由でインターネットを楽しみ、ゲームを楽しみ、政府のフィルターのかかったテレビドラマや娯楽番組を楽しむ。少し社会的なセンスを持ち合わせた者は、お仕着せであっても世界のニュースに関心を持つ。外国の放送を直接耳に出来る人は、語学が出来、しかも特定の許可された者に限られる。この与えれた社会で中国の青年たちは人間としての営みを続けていくしか方法はないのだ。ただし、これにも条件がある。即ち最低限の生活? が出来ることである。生活が出来ず、自由主義圏のように不満を合法的に発言する場がないので、その不満は青年たちの体内で少しずつ欲求不満として沈殿していく。たとえ政治的には大きな変化がなくても、経済的には社会はどんどん変る。

現在の中で環境の変化も激しい。貧富の差が拡大しつつある。「あいつにあって、どうして自分にはないのだ?」時代に取り残された青年、変化についてゆけない青年は、犯罪に走ることになる。何処の社会にも存在する青年たちだ。「上に政策あれば、下に対策あり」とは言うものの対策が出来て実行できる人は全体の少数派である。(もっとも少数といっても絶対値は多いが)勢い、この対策とは違法行為をして金を手にすることと同義語となる。この人たちは、もって行き場のない不満を心に抱きながら、私達外国人の目の届かないところで公安に捕まり消えていく。外国人が直接、接触して話が出来る人々はある程度生活力のある人たちに限られてくる。

何とも悲しく切ない青年たちである。この現実を目にすると、気軽に中国の長所をほめたり、欠点をあげっらうことが出来ず、その事実が重い滓となってテレビや書籍で見る日本の現在の青年たちの犯罪と重なって私の心の中に沈んでゆく。どうしても中国の「現在の現実」と「あって欲しい現実」とを比べる余り、暗い話になってしまうが、希望に燃える話がないわけではない。しかし、読者にはもう少し我慢して頂きたい。二〇〇八年のつい半年前までは、中国も高度成長を続け、GDP伸び率も二桁を維持してきた。しかし、後半の半年はサブプライムローンを引き金にアメリカの金融危機が勃発した影響を受け、GDP伸び率が急激に落ちてきて二〇〇八年は最終一ケタ台になると予想されている。

中国では、アメリカの金融危機の世界的影響にも係わらず、世界でも影響が一番少ない国と政府は発表し、結構中国の人はそれを信じていた。中国に関心を持つ政治経済、または中国とかかわりを持つ人は中国のGDP伸び率やその量、一人当たりのGDPに関心を持つ。しかしその数字では本当の庶民の憂いがわからない。もう一つ大事なことは国民の消費に関しての数字にも関心を持たなければならない。日本ではGDPの中の国民消費の割合が五五~六〇%を占め、アメリカでは七〇%を占めていることに対し中国では三五%~四〇%と低い状況にある。これは何を意味するかと言うと二〇〇三年からの二〇〇七年まで五年連続二桁のGDP伸び率であったが、個人を取り出せば二〇〇〇年の個人消費が四八%といわれていることから考えると本当の意味では個人は余り豊かになっていない。

これを人口で割れば一人当たりのGDPに占める割合は日本に比べると、国民全体の占める比率よりも更に小さい数字になる。絶対人口の多さで、三五%~四〇%になっていることが分る。一部の人間の豊かさが全体を押し上げて、一見豊かになっているように見えるだけである。一人当たりのGDPというのは全体を平均化していることであり、中国のように格差が大きい国では、本当の庶民の豊かさの実態を表さない。個人消費の占める割合というのも個人の豊かさを必ずしも表さないが、両方を見ることによりいくらかは判断の基準がもう少し明確になる。二〇〇七年のGDP伸び率が、一一・四五%であり、その中で個人消費、不動産、輸出がそれぞれ四・四%、四・ニ%、二・七%と発表され、初めて個人消費が不動産を上回ったということであるが、裏を返せば、中国の発展は不動産投資、輸出(輸出の半分以上は外資系企業)に支えられてきたということである。