2015年9月4日金曜日

集団的自衛権の不行使、武力行使の否定

第九条は、侵略戦争が自衛や制裁の名のもとに行われてきたという歴史的反省に立って、あらゆる正当化を排除する原理を宣言した条文だったとも言える。そこから派生してきた概念が、個別的自衛権の限定であり、集団的自衛権の不行使、武力行使の否定という諸制限だった。第二期の軍拡時代に、その制限は次第に緩和される方向にむかったが、冷戦後の第三期において、その流れをさらに緩和する必然性はまったくないだろう。それと同時に、憲法前文、第九条の趣旨に照らせば、軍縮を指向する姿勢こそが、戦後の日本の出発点であり、使命であったことを忘れてはならないだろう。これでは「普通の国」と言えるだろうか、という疑問は出てくるかもしれない。確かに、軍事力を自明の権利として主張しない点では「普通」とは言えないだろう。

だがそのことが、独立国の尊厳を否定するわけではもちろんない。軍事大国の可能性を絶って、新たな平和理念を確立することを、使命として一度は引き受けた国が、冷戦後の不安定な情勢でどう初心を貫いて生きていくのか。憲法第九条をめぐる議論で、一点だけ醒めた目で見続けなくてはいけないのは、そこにしかないように思われる。しかし、過去において、この三原則には序列があったと思われる。それは、まず米国を中心とする「自由主義諸国との協調」が優先され、それに反しなければ「国連」の動向に従い、最後にこれらの原則と両立することを前提に「アジアの一員」としての立場を堅持する、という順位だ。これは例えば、中国の代表権をめぐる国民政府支持の立場を取って表れ、カンボジア内戦を通して日本が取った政策にも通じている。