2012年9月26日水曜日

オスカー・ワイルドの一節

現代の若者たちの会話には「エサを食べるような気持でパンを胃に流し込む」という言い方がよく登場します。確かに、何かに追われるように、エサを食うがごとく食事を摂り、夜はただ「ねるだけ」の機能しか果さない住居にもどって体力を回復する日々を体験すると、「生存している」という表現に真実味を感じます。そして、つい最近でも、「人を荷物のように押し込んで動くだけの機能しか果さない交通機関」が日本では支配的です。

しかし、その日本でも一九八〇年代後半から「文化の時代」という流行語が急浮上してきて、あらゆる財やサービスの販売や提供のなかに「文化志向型」とか「高付加価値化」とかが唱えられ始め、これに伴って「企業の文化イメージ」が強調されるようになりました。

現在、日本企業はコーポレイトーアイデンティティを主張し、新入社員の募集パンフレットの見開きにも、音楽家がニッコリ笑って語りかけています。このような状況が続きますと、各社は役員のなかに文化部長を置き、マーケティング、新規採用からフィランソロピー(社会への貢献として文化事業などへ寄付すること)に至るまで首尾一貫した文化戦略を展開し、「我が社の文化イメージ」をつくりだしてゆくことでしょう。今では「企業文化」という用語さえ、ごく普通に人々の話題に上るようになりました。

そして、また、ワイルドの言う生活という言葉が、企業の「文化志向」に対応する形をとりながら、雑誌や商品や住宅サービスの名称を通じて急速に普及していったのです。ライフには生命という意味と生活という意味がありますが、この言葉のもつイメージはワイルドが「生存している人」とは区別していた「生活している人」をクローズーアップせずにはおきませんでした。

現代の「生活している人」とは、より多くの金銭を獲得するために単に生存しているだけではなくて「ライフ、つまり、いのちとくらしを充実させようとしている人」すなわち「いきがいを求める人」としての「人間の顔」を連想させます。そうすると企業も消費者も政府や自治体も「モノやカネ」よりも「人間のココロ」に触れるような生産や消費や行政を考えざるを得なくなってきました。文化経済、文化財政、文化政策などに大きな関心が寄せられたのも当然ではないでしょうか。