2014年12月4日木曜日

ナショナリズムの両義性

『インド近代における抵抗と背理』深い共感を誘う著書である。アジアのナショナリズムを論じたあまたの研究書の中で、それが抱える「背理」をこれほど鋭利に論じた作品は珍しい。アジアのナショナリズムに対する情緒的な思い入れは、ベトナム民族主義のあのおぞましい帰結によってもうすっかりわれわれから消え去ってしまった。

ナショナリズムとは何か、革命とは何かをきまじめに追い求めてきたジャーナリズムと学界が鳴りを静めて久しい。アジアのナショナリズムの本質は、帝国主義の「勢力東漸」に対する東洋の覚醒と抵抗にある。西欧の侵略と傲慢に抗して初めてみずからを主張し得たという点において、これが世界史的意味をもったことは否定すべくもない。しかしだからといってそのナショナリズムが、西欧的近代を超克した高次の文明創造の契機になるといった、一時代前に風摩した楽観的な思想に与することはとうていできない。

ナショナリズムは先験的にポジティブな役割を担うものではない。人種的、宗教的、文化的な異質国家から成るアジア諸国のナショナリズムは、異質的集団に対するしばしば苛烈な抑圧機構と化してきた。この「堕落」はいったい何なのか。本書の核心をなすのは、アジアのナショナリズムは現代において堕落を始めたわけではない、ナショナリズムはそれ自体が「健全」と「堕落」の両義性をほとんど宿命的に背負っている、という視角である。西欧的なるものに対するインド民衆のアモルフな反発と憎悪が植民地時代の大衆ナショナリズムとして結集していく一方、その同じ民族的心情がインド社会の内部に向かっては、不可触民差別とムスリム排撃へとつなかっていかざるを得なかった背理を鮮やかに論証している。

「今、我々はこの”東洋の抵抗”を、先験的に、能動的かつポジティブな契機として想定することが、もはや不可能な地点に立だされている。。道なき道を行く抵抗”は、ときに、背理や自己矛盾に行きつくことを、我々は見てしまったのだから」と本書は結ぶ。そしてそれ以上を語っていない。明晰の論理を展開しながら、末尾をこう結ばざるを得なかった著者の心情の中に、今日のアジアのナショナリズムの不透明なありようが暗示されているとみるべきであろうか。