2014年10月4日土曜日

住民参加型バスの先駆性

専門は社会学だが、その社会学を最初に提起したオーギュストーコントは、社会学者の役割を助産婦に似ていると表現した。社会は人間の思い通りにはならない。しかし、社会に起きつつあること、その将来像は、実証的な観察によって予見できる。予見ができれば、それが速やかに進行するよう、安産の手助けをすることだ。コントのこの議論は、近代社会を解読するという大きな枠組みの中で提示されたものだが、助産婦という表現は、この集落再生の問題にも適切だろう。まずは人々のうちに胚胎しているものを見定めなければならない。そこに何もなければ、それは死産に終わるかもしれない。しかし、何かがそこに用意されているなら、それを明るみに出し、実現するよう手助けすることだ。

集落再生プログラムを描くこと自体はそう難しいものではない。パソコン上で図を描くことなどやろうと思えばいくらでもできる。しかしそれが実行可能なものであるかどうかは疑わしい。各集落それぞれに個別の事惰がある。そこに暮らす人々の思いも様々だ。抽象的な論理を展開しただけでは、現場には何の役にも立だないだろう。それでも各地域で生じていることには、どうもある一定の方向性がある。限界集落問題は、北から南まで、全国どこにでも同じように現れている。とすれば、解決へのプログラムもある程度、同じように描ける可能性もある。共通する構造を慎重に見極めながら、その地に合った最も良い再生への道筋を、人々とともに引き出していくこと。鯵ヶ沢町の深谷地区ではそうしたことを目指して取り組み、かつそこでは一定の成果も見られた。ただしその成果は、既存の枠組みで考えている人にはがっかりするものかもしれないが。以下にその内容を、やや詳しく記述していきたい。

青森県西津軽郡鯵ヶ沢町。TJR五能線で行けば、弘前から一時間ほどで日本海が開け、鯵ヶ沢駅に到着する。次の駅が陸奥赤石駅。駅前に連なる赤石の小さな町を出て、赤石川を遡り、さらにその支流・沼ノ沢をたどって急坂をのぼっていくとやがて深谷地区に入る。公共交通では一日に一往復半のバスが鯵ヶ沢駅前からあるのみだ。二〇〇七(平成一九)年夏、日が暮れて涼しくなり、時折風の通る地区公民館の中で、弘前大学社会学研究室の学生だちとともに、深谷地区の地域調査を行っていた。深谷地区は計三集落からなる。麓に近い方から順に、深谷・細ヶ平・黒森の三集落である。

このうち真ん中にある細ヶ平集落の地区公民館に、深谷町会長の滝吉和俊さん、細ヶ平町会長の工藤幸夫さん、そして黒森町会長・山田衛さんを迎えて、聞き取り調査が始まった。テーマはこの集落の交通問題である。鯵ヶ沢町深谷地区はもともと、過疎地のバス交通で全国的に注目されてきた地域の一つだ。一九九〇年代、この地域では念願であったバス路線開通を、住民参加方式で実現した。その設計に大きく関わっていたのが、当時弘前大学社会学研究室にいた田中重好氏(現在、名古屋大学教授)である。弘前大学社会学研究室ゆかりの三集落というわけだが、鯵ヶ沢町役場に確かめたところ、このうち一集落が六五歳以上人口比率五〇%を超える、いわゆる限界集落に突入しつつあるという。

住民参加型バスの一五年後を調査しつつ現状を聞いてみようと現地を訪れた。鯵ケ沢~深谷・黒森間にバスが通ったのは、一九九三(平成五)年八月のことである。もともとこの地域では、一九七七(昭和五二)年の中学校統合でスクールバスが入るまで、冬期間の道路の除雪さえ十分に行われておらず、自動車交通そのものにも支障のある地域だった。その後も公共交通とは無縁であったこの地域では、鯵ヶ沢の町にある高校に行くにも下宿せねばならず、バス開通は地域の悲願だった。長い間の運動を経て、住民集会、バス会社・役場との折衝が重ねられ、次のような住民参加方式を採用することで、九三年のバス開通にこぎ着けることとなった。三集落に暮らす高校生を持つ家は必ず定期券を買う。時間は学校に間に合うよう調整する。何より、毎月一〇〇〇円分の回数券を、乗っても乗らなくても全戸で必ず買う。