技術的には、昔は母親の母親が、つまりおばあちゃんが直接教えてくれたものである。しかし今は一緒に住んでいないばかりか、もし一緒に住んでいても、技術進歩のためにやり方が変わってしまっているので、おばあちゃんの知識や技能が役に立だない。教えることがなくなりつつある。しかしもっと大切なのは技術よりも親子の心理的関係についての知識である。子どもの各成長期ごとに、親と子の心理がどのように関係し、いかに変化してゆくか、どんなことに注意したらいいのか、等について、信頼できる教育の機会がないのである。
なるほど大学には教育心理学や児童心理学の講座はあるが、そこで学ぶ人は将来学校の先生や保母さんになる、ごく限られた人たちだけである。実際に父親や母親になる一般の人々は、そういう「専門的」教育を受けないままに、いきなり子どもを育てることになる。たしかに子どもをいかに育てたらいいかという本は出版されている。しかしそういう本を読む人もまた限られている。育児の方法については、依然として「専門的」知識にとどまっている。しかし親子関係の心理や育児の方法は「専門的」知識であってはいけないのである。だれでも必ず学ぶ機会を持てるものでなければならない。ちょうど車を運転する者が必ず自動車教習所に入って、一定の教習を受け、試験にパスしなければならないように、子どもができたら、生まれる前に一定の講習を受けて、子どもを育てる資格を取らなければ子どもが産めない、というくらいにする必要がある。
ここまで言うと、人は笑うかもしれないし、私も本気でそこまでやるべきだとは言わないが、しかしこの喩えには何がしかの真理が含まれていると思う。我々はどこかで子どもの育て方についてきちんと学ぶ機会を持つ必要があるという意味では、それを自動車教習所に喩えることはそうばかばかしいことではないはずである。車の運転は人の命にかかおると言うのなら、育児は子どもと社会の将来を決定するのである。まして現代は地球がひとつの運命共同体となり、一部の動きが人類全体に直接影響を与える時代であるから、于どもの育て方は人類の命にかかおる大仕事であるという自覚をすべての親が持たなければならない。
育児の方法をいつどこで教えるかは、難しい問題である。たとえば全員に教えるという意味では義務教育の間に教えるのがよさそうであるが、しかしあまり早く教えるのは、じっさいの親子関係をかえって破壊する作用をしかねないし、教わる子どものほうも実感が伴わないので、真剣に学ぼうとしない恐れがある。時期としては大学生あたりが適当であろうが、それでは国民全体にというわけにはいかない。もっとも、それ以前に、そういうことを国民全体に一斉に教えること自体について、さっそく反対論が出そうである。そういうことは自発的に学ぼうという意志のある人にだけ教えればよい、と。また教える内容についても、必ずしも確定しているわけでもなく、人によってあるべき育児の方法が異なっているのであるから、なおさら画一的に教えるということには疑問が提出されることであろう。
このように具体的にどのような内容を、どのような方法で教えるかは、たいへん難しい問題であるが、しかし子どもを育てる親が、その方法についてなんらかの形で学ぶ必要があるという点には、大方の人が賛成するのではなかろうか。ひところ親業という言葉がはやり、親業のセミナーが開かれたりしたが、それもこのような必要が感じられた結果であろう。親になるためには、ただ物理的に子どもを産み育てればよいというものではなく、子どもの育て方についてそれなりの教育を受け、準備をする必要があるということが、もっと認識されなければならない。そしてその教育の方法について、しかるべき機関において早急に検討され、実験的にでも実施に向けて動き出すべきである。
2015年1月8日木曜日
2014年12月4日木曜日
ナショナリズムの両義性
『インド近代における抵抗と背理』深い共感を誘う著書である。アジアのナショナリズムを論じたあまたの研究書の中で、それが抱える「背理」をこれほど鋭利に論じた作品は珍しい。アジアのナショナリズムに対する情緒的な思い入れは、ベトナム民族主義のあのおぞましい帰結によってもうすっかりわれわれから消え去ってしまった。
ナショナリズムとは何か、革命とは何かをきまじめに追い求めてきたジャーナリズムと学界が鳴りを静めて久しい。アジアのナショナリズムの本質は、帝国主義の「勢力東漸」に対する東洋の覚醒と抵抗にある。西欧の侵略と傲慢に抗して初めてみずからを主張し得たという点において、これが世界史的意味をもったことは否定すべくもない。しかしだからといってそのナショナリズムが、西欧的近代を超克した高次の文明創造の契機になるといった、一時代前に風摩した楽観的な思想に与することはとうていできない。
ナショナリズムは先験的にポジティブな役割を担うものではない。人種的、宗教的、文化的な異質国家から成るアジア諸国のナショナリズムは、異質的集団に対するしばしば苛烈な抑圧機構と化してきた。この「堕落」はいったい何なのか。本書の核心をなすのは、アジアのナショナリズムは現代において堕落を始めたわけではない、ナショナリズムはそれ自体が「健全」と「堕落」の両義性をほとんど宿命的に背負っている、という視角である。西欧的なるものに対するインド民衆のアモルフな反発と憎悪が植民地時代の大衆ナショナリズムとして結集していく一方、その同じ民族的心情がインド社会の内部に向かっては、不可触民差別とムスリム排撃へとつなかっていかざるを得なかった背理を鮮やかに論証している。
「今、我々はこの”東洋の抵抗”を、先験的に、能動的かつポジティブな契機として想定することが、もはや不可能な地点に立だされている。。道なき道を行く抵抗”は、ときに、背理や自己矛盾に行きつくことを、我々は見てしまったのだから」と本書は結ぶ。そしてそれ以上を語っていない。明晰の論理を展開しながら、末尾をこう結ばざるを得なかった著者の心情の中に、今日のアジアのナショナリズムの不透明なありようが暗示されているとみるべきであろうか。
ナショナリズムとは何か、革命とは何かをきまじめに追い求めてきたジャーナリズムと学界が鳴りを静めて久しい。アジアのナショナリズムの本質は、帝国主義の「勢力東漸」に対する東洋の覚醒と抵抗にある。西欧の侵略と傲慢に抗して初めてみずからを主張し得たという点において、これが世界史的意味をもったことは否定すべくもない。しかしだからといってそのナショナリズムが、西欧的近代を超克した高次の文明創造の契機になるといった、一時代前に風摩した楽観的な思想に与することはとうていできない。
ナショナリズムは先験的にポジティブな役割を担うものではない。人種的、宗教的、文化的な異質国家から成るアジア諸国のナショナリズムは、異質的集団に対するしばしば苛烈な抑圧機構と化してきた。この「堕落」はいったい何なのか。本書の核心をなすのは、アジアのナショナリズムは現代において堕落を始めたわけではない、ナショナリズムはそれ自体が「健全」と「堕落」の両義性をほとんど宿命的に背負っている、という視角である。西欧的なるものに対するインド民衆のアモルフな反発と憎悪が植民地時代の大衆ナショナリズムとして結集していく一方、その同じ民族的心情がインド社会の内部に向かっては、不可触民差別とムスリム排撃へとつなかっていかざるを得なかった背理を鮮やかに論証している。
「今、我々はこの”東洋の抵抗”を、先験的に、能動的かつポジティブな契機として想定することが、もはや不可能な地点に立だされている。。道なき道を行く抵抗”は、ときに、背理や自己矛盾に行きつくことを、我々は見てしまったのだから」と本書は結ぶ。そしてそれ以上を語っていない。明晰の論理を展開しながら、末尾をこう結ばざるを得なかった著者の心情の中に、今日のアジアのナショナリズムの不透明なありようが暗示されているとみるべきであろうか。
2014年11月5日水曜日
e‐ビジネスの特徴
ユナイテッドーテクノロジーは、部品供給をウェブサイトで募集したところ、たちまち申し出が殺到し、入札価格を当初見積もりの二四〇〇万ドルから1000万ドルも切り下げることに成功した。企業向けの販売にも、ネットワークが活用されている。ミラクロン(Milacron)という金属加工機器の会社は、ウェブサイトを通じて五万点の商品を一〇万以上の企業に対して販売し始めた。オンラインを通じた取引を行なうことで、小規模な顧客に対しても、大企業と同等のサービスを提供することができる。
シスコーシステムズ(急成長しているインターネット関連機器の製造メーカーでは、全販売額の七五%はインターネットを通じて行なわれ、その約半分は、人間の手かぶれないままに処理されて製造工程に入るという。企業を相手にしたオークションサイトも多い。マーシャル(Marshall)社は、半導体の取引市場を提供するサイトを運営している。メーカーと顧客が価格交渉を行なったり、メーカーが余剰在庫やデッドストックを特価で放出したり、バイヤーが価格を指定する指し値取引を行なったりすることができる。このサイトを利用することで、メーカーは取引先を見出す機会を増やすことができ、価格変動の激しい半導体の余剰在庫を抱えるリスクを減らすことができる。
この他にも、ネットーマーケットを創出するサイトが続々と登場している。分野も、製紙、住宅ローン、運輸(トラックの空きスペース)などに広がっている。企業間のネットーオークショソ型電子商取引は、日本でも行なわれるようになった。コマツの子会社で中古建機を販売するコマツクイックは、九九年一月に初めて行なったネットーオークションで、インターネット経由の年間売上の三分の一にあたる七〇〇〇万円を四日間で売り上げたという。
このように、情報に直接関連する産業だけでなく、製造業も含めた経済活動のなかで、情報に関連する部分が大きく変わってゆくのである。また、消費者とのインターフェイスだけでなく、企業活動の全体をインターネット技術を用いて新しい仕組みに改造する動きが生じているのだ。これは、経済活動の全体が新しいスタイルに移行することを意味する。
米国では、企業間の電子商取引は、消費者を相手にするものの五倍の規模になっている。これは、「BいB」(Business to Business E-Commerce)と呼ばれる。九八年のBいBの市場規模は四三〇億ドルだが、二〇〇二年には、八四二〇億ドルに拡大し、二〇〇三年までに一・三兆ドルに達するという予測もある。ネットワークを活用する新しい経済活動は、つぎのような重要な特徴をもっている。第一は、技術進歩や事業の展開がきわめて急速なことだ。「インターネットの世界はドックイヤー」といわれる。犬は一年間に人間の七歳分の年をとる。インターネットの世界では、ほかの世界で七年間に起こることが一年間に起こってしまう、という意味だ。
シスコーシステムズ(急成長しているインターネット関連機器の製造メーカーでは、全販売額の七五%はインターネットを通じて行なわれ、その約半分は、人間の手かぶれないままに処理されて製造工程に入るという。企業を相手にしたオークションサイトも多い。マーシャル(Marshall)社は、半導体の取引市場を提供するサイトを運営している。メーカーと顧客が価格交渉を行なったり、メーカーが余剰在庫やデッドストックを特価で放出したり、バイヤーが価格を指定する指し値取引を行なったりすることができる。このサイトを利用することで、メーカーは取引先を見出す機会を増やすことができ、価格変動の激しい半導体の余剰在庫を抱えるリスクを減らすことができる。
この他にも、ネットーマーケットを創出するサイトが続々と登場している。分野も、製紙、住宅ローン、運輸(トラックの空きスペース)などに広がっている。企業間のネットーオークショソ型電子商取引は、日本でも行なわれるようになった。コマツの子会社で中古建機を販売するコマツクイックは、九九年一月に初めて行なったネットーオークションで、インターネット経由の年間売上の三分の一にあたる七〇〇〇万円を四日間で売り上げたという。
このように、情報に直接関連する産業だけでなく、製造業も含めた経済活動のなかで、情報に関連する部分が大きく変わってゆくのである。また、消費者とのインターフェイスだけでなく、企業活動の全体をインターネット技術を用いて新しい仕組みに改造する動きが生じているのだ。これは、経済活動の全体が新しいスタイルに移行することを意味する。
米国では、企業間の電子商取引は、消費者を相手にするものの五倍の規模になっている。これは、「BいB」(Business to Business E-Commerce)と呼ばれる。九八年のBいBの市場規模は四三〇億ドルだが、二〇〇二年には、八四二〇億ドルに拡大し、二〇〇三年までに一・三兆ドルに達するという予測もある。ネットワークを活用する新しい経済活動は、つぎのような重要な特徴をもっている。第一は、技術進歩や事業の展開がきわめて急速なことだ。「インターネットの世界はドックイヤー」といわれる。犬は一年間に人間の七歳分の年をとる。インターネットの世界では、ほかの世界で七年間に起こることが一年間に起こってしまう、という意味だ。
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