当時は部長のところにくるフリーカメラマンも、みなスーツ姿でした。もちろん仕事の内容や場所によって服装も変わりますが、部長が言いたかったのは、要するに「相手に名刺を出せる格好で行け」ということでした。この訓えは四十年たったいまでも守っているつもりです。特に大事な仕事や緊張を要する撮影のときは、できるだけきちんとした服装をして行きました。仕事先で、少しでも「こんな格好で失礼ではなかったろうか」などと考え始めたら集中できません。いくぶん堅めの身なりのほうが、多少、雰囲気に合わなくても気が楽です。この部長は入社したばかりの若い部員たちをたびたび自宅に呼んでご馳走し、帰りがけには、みんなに使わなくなったネクタイを払い下げてくれたものでした。
昭和四十一年に、出版社のカメラマンで構成される日本雑誌写真記者会が設立されましたが、このとき、いくつかの規約のほかに「取材相手に不快感を与えない服装」という項目も盛り込まれました。誇りを持って仕事をするためです。昭和五十三年、ヤクルトースワローズがセントラルーリーグで初優勝したとき、広岡達朗監督は押しかけるマスコミにもみくちゃにされました。筆者の先輩もその一人でしたが、移動する新幹線の中で名刺を出して挨拶をしたところ、「カメラマンから名刺を出されたのは初めてだ」といって、わざわざ立ち上がって受けとってくれたど、感激の面持ちで話してくれました。先輩が「名刺を出せる格好」であったことは言うまでもありません。
プロゴルファーのジャツクーニクラウスが新しい専属キャディを募集したとき、大勢の応募者の中からたった一人を選んだ理由は、「スーツを着てきたから」たったそうです。こんなことを言うのも、カメラを持っている人は、得てして写す相手を観察することばかりに熱心で、自分自身が見えなくなっていることがあるからです。「外見より中身」「撮れれば勝ち」というのは脆弁にすぎません。レンズを向けているときは、相手から自分も見られているのです。それなりの服装をするのは、相手に対する敬意であると同時に、自分の心に洗濯のノリをきかせることでもあるのです。
カメラを武器に有名人を狙い、問答無用の写真を撮って生計を立てている輩がいます。イギリスのダイアナ元皇太子妃を死に追いやった元凶ともいわれた、パパラッチと呼ばれる人種です。嫌われ者のやぶ蚊のような連中ですが、彼等が吸う血は針を持たない一般大衆の大好物でもあるので、マスコミという噴霧器からまき散らされると、あツという間に世間に広まります。近頃の日本では素人たちの間にも、そんなやぶ蚊の卵が孵化し始めています。有名人とみれば無神経にカメラを向ける連中です。おかげで映画やテレビで活躍している有名人や人気スポーツ選手たちは、いまや四六時中、レンズを向けられ、気の休まるヒマもありません。
先日、名古屋から新幹線のグリーン車に乗ったところ、前の席にある女優さんが座っていました。しばらくすると、うしろから若い男がやってきて、いきなり女優さんの顔にコンパクトカメラを近づけると、ピカッとやって黙って行き過ぎました。眠ろうと目を閉じた直後に光ったストロボに、女優さんはアッと小さな声を出しただけでしたが、心ないショットがどれくらい彼女を傷つけたか、「やったあ」と思っている青年はまったく気づいていないでしょう。
2012年12月25日火曜日
不妊治療の現実
お産の専門家が産科医で、男性が大部分という現実は、次のような出産の現状をも作り出している。まず、出産に関連してよく研究されている分野は、女性の不妊治療を目的とした生殖技術だ不妊治療ではないが、一九八六年に飯塚理八氏たちが「男女の産み分け法」を開発した時、私は医師たちの生殖技術開発競争に危惧を持つ友人だちと、「自然の力に任せなければならない分野」に人間が手を入れることの不安と、」定の倫理的歯しにめの必要性を、興奮しながら議論し合ったのをおぼえている。しかしその後、歯削めどころか、女性の身体を研究材料とした不妊治療開発競争はどんどん拡人している。
二十数年前、同氏たちによって盛んに行なわれ、テレビドラマにも登場した、AIDなど人工授精は、今ではも立不妊治療のイロハだ。その後、排卵誘発剤の研究開発による多胎妊娠、体外受精、さらにその受精卵を冷凍保存し、適宣解凍してかえし、妊娠出産に成功など、様々なことが進行している。「こんなことまで人間が闘発していいのだろうか」と危惧したとおり、どんどん女性の身体への自然破壊が進んでいる。
これを福音と考えるか、破壊と考えるかは、何を第一義と考えるかによって決まるだろう。しかし私はどのような状態の女性であれ、その女性の人生は、その女性にとってかけがえのないものであり、その入らしく人生を充実させること、それが何にも勝る大切なことだと考える。若い未婚者の「不妊」イメージ女性は、明治以後の富国強兵という国策のため、必要以上に強められた「家」の意識を、戦後もそのままひきずっている人の多い日本では、とくに苫しい立場を強いられている。ある時、若い人たちがどんな未来を描いているか聞いてみた。
男子学生では二三名中、「結婚している」と明記した者一三名、さらにそのうち「子どもがいる」と考えた者一一名。女子学生は一〇〇名だったが、同じく「結婚している」者は九二名、「子どもがいる」者はそのうち八五名にのぼっている。結果をみて驚いた。若くて「家」意識などにこだわっていないようにみえる未婚の男女学生たちが、こんなにも強く、正統な大人は既婚者でなければならないとイメージしているとは。さらに大多数が、結婚と父や母になることとを同一視し、子どものいる家庭生活を「平凡な生活」とか「子どもたちのために外国で」(以上男子学生)などと想像し、あるいは「平凡だが明るい家庭」とか「忙しいが充実した毎日」とイメージしている。
そしてこのように、彼らは子どものいる家庭生活を「明るい、充実した、当たり前」のものとみなし、子どもを中心として家庭が運営されることをほとんど疑っていないのである。若者さえこうなのだから、「家」主体の家族観を強固に身につけた義父母に囲まれた現代の不妊女性たちが、どのくらい強い苦しみを受けているか想像に難くないものと思う。
私は一〇年ほど前テレビで、不妊女性たちが苦痛のともなう不妊治療を受けながら、排卵誘発剤を投与され、その後ただひたすら排卵日の人工授精にそなえて入院している姿をみて、涙を禁じえなかった。ひどい苦痛と多額の出費、それに計り知れないほどの時間を、ただ子作りのためだけに費やす女性たち。こんな「卵をうむことだけを強要されるメンドリのような人生」になぜ女性たちが追い立てられたり、あるいは自分を追い込んでいくのだろうか。
二十数年前、同氏たちによって盛んに行なわれ、テレビドラマにも登場した、AIDなど人工授精は、今ではも立不妊治療のイロハだ。その後、排卵誘発剤の研究開発による多胎妊娠、体外受精、さらにその受精卵を冷凍保存し、適宣解凍してかえし、妊娠出産に成功など、様々なことが進行している。「こんなことまで人間が闘発していいのだろうか」と危惧したとおり、どんどん女性の身体への自然破壊が進んでいる。
これを福音と考えるか、破壊と考えるかは、何を第一義と考えるかによって決まるだろう。しかし私はどのような状態の女性であれ、その女性の人生は、その女性にとってかけがえのないものであり、その入らしく人生を充実させること、それが何にも勝る大切なことだと考える。若い未婚者の「不妊」イメージ女性は、明治以後の富国強兵という国策のため、必要以上に強められた「家」の意識を、戦後もそのままひきずっている人の多い日本では、とくに苫しい立場を強いられている。ある時、若い人たちがどんな未来を描いているか聞いてみた。
男子学生では二三名中、「結婚している」と明記した者一三名、さらにそのうち「子どもがいる」と考えた者一一名。女子学生は一〇〇名だったが、同じく「結婚している」者は九二名、「子どもがいる」者はそのうち八五名にのぼっている。結果をみて驚いた。若くて「家」意識などにこだわっていないようにみえる未婚の男女学生たちが、こんなにも強く、正統な大人は既婚者でなければならないとイメージしているとは。さらに大多数が、結婚と父や母になることとを同一視し、子どものいる家庭生活を「平凡な生活」とか「子どもたちのために外国で」(以上男子学生)などと想像し、あるいは「平凡だが明るい家庭」とか「忙しいが充実した毎日」とイメージしている。
そしてこのように、彼らは子どものいる家庭生活を「明るい、充実した、当たり前」のものとみなし、子どもを中心として家庭が運営されることをほとんど疑っていないのである。若者さえこうなのだから、「家」主体の家族観を強固に身につけた義父母に囲まれた現代の不妊女性たちが、どのくらい強い苦しみを受けているか想像に難くないものと思う。
私は一〇年ほど前テレビで、不妊女性たちが苦痛のともなう不妊治療を受けながら、排卵誘発剤を投与され、その後ただひたすら排卵日の人工授精にそなえて入院している姿をみて、涙を禁じえなかった。ひどい苦痛と多額の出費、それに計り知れないほどの時間を、ただ子作りのためだけに費やす女性たち。こんな「卵をうむことだけを強要されるメンドリのような人生」になぜ女性たちが追い立てられたり、あるいは自分を追い込んでいくのだろうか。
2012年9月26日水曜日
オスカー・ワイルドの一節
現代の若者たちの会話には「エサを食べるような気持でパンを胃に流し込む」という言い方がよく登場します。確かに、何かに追われるように、エサを食うがごとく食事を摂り、夜はただ「ねるだけ」の機能しか果さない住居にもどって体力を回復する日々を体験すると、「生存している」という表現に真実味を感じます。そして、つい最近でも、「人を荷物のように押し込んで動くだけの機能しか果さない交通機関」が日本では支配的です。
しかし、その日本でも一九八〇年代後半から「文化の時代」という流行語が急浮上してきて、あらゆる財やサービスの販売や提供のなかに「文化志向型」とか「高付加価値化」とかが唱えられ始め、これに伴って「企業の文化イメージ」が強調されるようになりました。
現在、日本企業はコーポレイトーアイデンティティを主張し、新入社員の募集パンフレットの見開きにも、音楽家がニッコリ笑って語りかけています。このような状況が続きますと、各社は役員のなかに文化部長を置き、マーケティング、新規採用からフィランソロピー(社会への貢献として文化事業などへ寄付すること)に至るまで首尾一貫した文化戦略を展開し、「我が社の文化イメージ」をつくりだしてゆくことでしょう。今では「企業文化」という用語さえ、ごく普通に人々の話題に上るようになりました。
そして、また、ワイルドの言う生活という言葉が、企業の「文化志向」に対応する形をとりながら、雑誌や商品や住宅サービスの名称を通じて急速に普及していったのです。ライフには生命という意味と生活という意味がありますが、この言葉のもつイメージはワイルドが「生存している人」とは区別していた「生活している人」をクローズーアップせずにはおきませんでした。
現代の「生活している人」とは、より多くの金銭を獲得するために単に生存しているだけではなくて「ライフ、つまり、いのちとくらしを充実させようとしている人」すなわち「いきがいを求める人」としての「人間の顔」を連想させます。そうすると企業も消費者も政府や自治体も「モノやカネ」よりも「人間のココロ」に触れるような生産や消費や行政を考えざるを得なくなってきました。文化経済、文化財政、文化政策などに大きな関心が寄せられたのも当然ではないでしょうか。
しかし、その日本でも一九八〇年代後半から「文化の時代」という流行語が急浮上してきて、あらゆる財やサービスの販売や提供のなかに「文化志向型」とか「高付加価値化」とかが唱えられ始め、これに伴って「企業の文化イメージ」が強調されるようになりました。
現在、日本企業はコーポレイトーアイデンティティを主張し、新入社員の募集パンフレットの見開きにも、音楽家がニッコリ笑って語りかけています。このような状況が続きますと、各社は役員のなかに文化部長を置き、マーケティング、新規採用からフィランソロピー(社会への貢献として文化事業などへ寄付すること)に至るまで首尾一貫した文化戦略を展開し、「我が社の文化イメージ」をつくりだしてゆくことでしょう。今では「企業文化」という用語さえ、ごく普通に人々の話題に上るようになりました。
そして、また、ワイルドの言う生活という言葉が、企業の「文化志向」に対応する形をとりながら、雑誌や商品や住宅サービスの名称を通じて急速に普及していったのです。ライフには生命という意味と生活という意味がありますが、この言葉のもつイメージはワイルドが「生存している人」とは区別していた「生活している人」をクローズーアップせずにはおきませんでした。
現代の「生活している人」とは、より多くの金銭を獲得するために単に生存しているだけではなくて「ライフ、つまり、いのちとくらしを充実させようとしている人」すなわち「いきがいを求める人」としての「人間の顔」を連想させます。そうすると企業も消費者も政府や自治体も「モノやカネ」よりも「人間のココロ」に触れるような生産や消費や行政を考えざるを得なくなってきました。文化経済、文化財政、文化政策などに大きな関心が寄せられたのも当然ではないでしょうか。
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